室生寺
ようやく蝉の音が下火になり、替わって虫の音が夕暮れからよく聞くようになって来ました。まだまだ先週までの暑さは夏を思わせるものでしたが、今日は久し振りの雨で植物も暑さから解放されほっとしているようです。先月半ばよりフィルム整理の仕事も終盤に入り、博道の初期の出版で、モノクロームの代表作の一つ「室生寺」に差し掛かりました。筆者は、哲学者で芸術に造詣の深い矢内原伊作先生でした。まず、写真を見、頁を進めて矢内原先生の文章を読み進むと骨董や古美術品の好きな私が日頃、何となく疑問に思っていた事についての答えがそこにありました。「造形芸術において何が最も偉大かといえば、誰もが古代中国、インド、ペルシャ、エジプトと言うだろう。偉大というのは曖昧な概念だが、要するに芸術として人をうつ迫力においてこれらの古代の作品を凌駕する物は、その後つくられなかったのである。これらに次いで偉大なのは、ギリシャ、ローマであり中世であり、ルネッサンスである。ルネッサンスの巨匠が、いかに偉大であっても中世の無名の石工には、及ばない。不思議な事だが、我国の彫刻を考えても同様である。最も美しい彫刻は奈良時代に集中しており、次に、平安、鎌倉時代と時代が下るにしたがって迫力を失い、室町時代以後は、ほとんど見るべき彫刻はないという事になる。文学についても染織工芸についても音楽についても同じ事が言える。もちろん芸術的な価値、迫力というものはあくまで、主観的なものであるが、我々が古い文化の遺産に接することに喜びを感じるのは、現代から過去に逃れる為ではない、逆に未来に向かってより良く生きる為である。古い物が美しいという事は現代の創造や生活を豊かにする物が、古い物の中にあるという事なのです。そこには、過去を見、学び、感じ、未来へと伸びて行こうとする伝統の力があるはずです。奈良時代や、平安、鎌倉の仏師や石工は彫刻とは何が何を作るべきとかといったことを考える必要がなく様式に従ってひたすら、熟練を積んだが、現代の彫刻家は、何が彫刻であるかをたえず問わなければならない。彫刻に限らず、絵画、音楽、演劇、文学等々も皆同じでしょう。古今東西の芸術を自由に鑑賞出来る現代は、より創造という事を貧しくしているのではないだろうか。すなわち、普遍的な物を目指す事が、伝統を生かす道だという観点が立てば、古い寺院や美術に感動し、その中に普遍性を見出し、それが伝統をつなぐ事に生かされる時、私達は創造への一歩を踏み出しているのではないでしょうか。」等々という事を身近な事例を交えながら説いて行かれる文章に引き付けられ、引用させていただきました。古い本ですが、淡交新社版「室生寺」古本屋で探してはどうでしょう。博道の写真と矢内原先生の文章、久方ぶりに楽しみました。